思い出になった日

今日ひと月ぶりに実家に帰ったのですが、
普段はでかけていることの多い家族がたまたま皆いました。

そこで避けては通れぬ相続の話などしたのですが、

 

私「お母さんって貯金あったの?」

父「まぁXXくらいはあったよ」

妹「でもお母さん、一ヶ月に2回は山に行って、
  旅行もたくさんいって、
  遺ってるだけでもすごいことだよ~」

父「みんな大学生にあってからお母さん、
  友達にもう家事はしない宣言してたらしいぞ。
  好きなことをやるって。
  最近は俺が9割以上家事してたんだからな」

私「そんなこといってるとまた怒られちゃうよ。
  夢枕に立たれちゃうよ」


なんて話をして、
すごく印象的だったのが皆笑顔だったのです。


半年前は、ほんとうに、ただ地元を歩いているだけでも涙が溢れ
もう大丈夫、大丈夫と言い聞かせながら毎日をやり過ごしていました。

唯一、職場だけが逃げ場でした。
仕事をしている時だけはすべてを忘れられました。
働いて、働いて、ふと休憩してる瞬間に思い出したりして
辛さをかき消すようにまた働いて・・

休日には予定をパンパンにつめ、また平日に働く。
うまく向き合えないけれど、それでも自分は生きていかねばいけないわけで。

多分それは家族も同じで、
皆懸命に向かい合い、受け入れきれず、それでも受け入れ、前に進み、

そしてあっという間に半年がたち、
今日、皆で話をした時に、

辛いとか、悲しいとか、そういった感情でなく、
心からお母さんはこうだったよね、と
皆で母に思いを馳せることができた気がしたのです。

もう顔を見ることはできないし、
一緒にごはんを食べたり、
買い物したり、
旅行をしたり、
結婚式にきてもらったりとか、
孫の顔をみせたりとか、
そういったことはできないのだけれども、

まるでそこに母がいるように、
母がいなくなる前のような空気を感じられたことが、
とても嬉しかったのです。

 


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母が倒れた時、病室でいつも考えていたことがありました。

人工呼吸器で命をつないでいた母の命。
生きているのだから身体は温かいし、
肌に弾力もある。
ただ、意識がない。

それでは母の意識はどこにいっているのだろうか?

亡くなるまでの5日間で、
くも膜下出血を発症した人のブログや書籍をたくさん読みましたが、
決まって書いてあったことは

「身体は動かなくても、意識はありました」
「話かけてくれる言葉もわかるし、」
「病室の上からいつも自分の身体を見下ろしていました」


なるほど。
もしかしたら母も、自分の身体を見下ろしながら
「なんでみんな泣いてるの?私はここにいるのに!」
なんて叫んでるのかも、なんて思ったりしました。

肉体はなくなってしまっても、魂は残るのかな、なんて。

 


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だから、今日のことがすごく印象的だったのです。
母の魂は、肉体がなくなってしまった今も、
ちゃんと皆の中で生きてるのだと感じられたから。

 


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おかあさん、ありがとう
今日も生きてゆきます。