母が亡くなりました

2015年8月12日 最愛の母が亡くなりました。

57歳でした。

 

病名は「急性くも膜下出血」。

いわゆる突然死でした。

 

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忘れもしない8/7
金曜日の夕方で、華金だし上司と飲みに行こうかな、なんて考えていたとき、
デスク上のスマホが点滅しているのが見えました。

普段ならあまり気にかけないのですが、たまたま確認すると
父から着信が入っていました。

父から着信なんて滅多にないことなので、間違い電話かな?なんて思いながら
一応「何か用事?」とメールするとすぐに返信がありました。


「おかあさんがしにそうでんわくれ」


頭の中がハテナでいっぱいになり、急いで会社のフロアをでて
階段の踊り場で電話をかけると、聞いたことのないくらい早口で、焦った父の声が聞こえました。

「お母さんが買い物中に倒れて意識不明らしい!」
「自分もすぐに病院に向かうからすぐにきてくれ!」
「今から言う場所をメモって!××駅の○○病院だから!」

よく状況を理解できないまま上司に母が倒れたことを伝え、タクシーで病院へと向かい、
病院の受付で母の名前と救急で運ばれたことを伝えると、救命病棟の家族控室に通されました。

そこには憔悴しきった父の姿。
母方の親戚と祖母には連絡済であること、妹たちには連絡が取れておらず、
急いで妹の会社に連絡をとってほしい、と伝えられました。
すぐに言われた通りにし、父と控室のソファで待機していると、
10分くらいで看護師さんが救急処置を終えたので母と面会できる旨を伝えに来ました。

救命病棟の様子はよく覚えていませんが、
そこにはたくさんの管につながれた母が横たわっていました。
茫然と母を見つめていると、医師から深刻な顔で伝えられました。

「××駅で突然意識を失ったようで救急で運ばれてきました。
 病名はくも膜下出血です。
 応急処置はしましたが、症状がひどく、通常行う開頭手術が行えない状態です。
 くも膜下出血は程度によって5段階でグレードがわかれますが、
 今回はレベル5、重症です。
 意識が戻る確率はとても低く、戻っても植物状態でしょう・・・」


そこからはバタバタと家族と親戚が到着、医師が全員に一通り事情を説明し、
母は個室に移されたのでした。


最後に連絡がついたのは次女でした。
変わり果てた姿の母をみて、次女がみるみる泣き顔に。
「今朝お母さんと喧嘩しちゃったんだ・・・・」

次女は大学4年生で、内定はもらっているものの就活継続中で、
家にいる時間が長く、一番母と会話をしていました。
この日たまたま仕事にでかける母と喧嘩してしまい、
昼頃に母から「お昼一緒に食べない?」と連絡があったものの、
双方いる場所が違いすぎて落ち合えず。
その時に聞いた声が母の最後の声だったそうです。


その後、看護師に入院に必要なものを買ってくるように言われ、父も一泊するというので
着替えやおにぎりなんかをコンビニで購入しました。
総額が1万円を超え、働いてて良かったな、なんてボンヤリ思いました。

21時ごろ、妹たちとタクシーで帰宅しました。


8/7、ゆるゆると流れていた日常が、一転して非日常へと変わりました。

 

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8/8、この日は土曜日でした。
8日は(特別に)9時から面会できることになっていたので、9時につくように病院に向かいました。
控室に行くと父がいたので、バトンタッチで母の面会へ。
父は顔色が悪かったので、少し休むように伝えました。

ベッドに横たわる母は、本当に、ただ眠っているようでした。
顔色もよく、肌もあたたかい。
ただいつもと違うのは、人工呼吸器がないと呼吸ができていないことでした。

医師から詳しく聞くと、母は買い物をし、会計を終えてから、
膝から崩れ落ちるように倒れたのだそうです。
倒れると同時に心肺停止、そのまま45分その状態が続いたため、
脳が大きな損傷を受けている、と。

くも膜下出血というのは、脳の血管のふくらみ(脳動脈瘤)が破裂し、
漏れた血液が脳を圧迫してしまう病気です。
後々妹から聞いたのですが、母の場合は脳動脈瘤がとても大きく、破裂の衝撃で脳幹を圧迫してしまった、と。
脳幹というのは呼吸や内臓の制御を行っている部分で、ここが機能しない、イコール生存は絶望的である、と。

ここまで言われても、自分には目の前で寝ている母が死に瀕しているとは到底思えませんでした。
母が倒れてからずっと、くも膜下出血から生還した人の本やブログを読み漁っていました。

グレード5でも社会復帰した人がいる!
6年間意識不明でも声かけを続けた結果、奇跡的な回復をした人がいる!

そんな奇跡が母にも起きると信じてやみませんでした。
もし寝たきりになってしまっても良い、しゃべれなくても意識さえ戻ってくれれば前進できる、
心臓は自分の力で動いているのだから、脳の出血さえ収まれば手術ができ、奇跡がおこるのでは?

そんなことばかり、グルグルと考えていました。


午前の面会が終わり、午後は妹たちと一緒に、近所の氏神様の神社にお参りに行きました。
母の大好きな神社だったので、どうか母が彷徨っていたら戻してくれるようお願いし、
3人で「母が元気になりますように」と絵馬を書きました。
25年の人生で、初めて書いた絵馬でした。

お参りの帰り道も、近くの駅から病院に行くときも、
25年間育ったこの町は母との思い出が多すぎて、
歩くだけで涙が滲み、しばしば前が見えなくなりなりました。

駅で数人浴衣の人をみました。
その日は東京湾大華火祭で、父と母が行く予定だったことを思い出しました。
私が行くつもりでしたが数日前に予定が入り花火の観覧席のチケットが余ってしまったので、
母に譲ったのでした。
行く?とLINEを送ると、嬉しそうに「いいの?!」と返ってきたので、
こちらまで嬉しくなったことを思い出すと同時に、悲しくなりました。

午後の面会には、確か家族と親戚全員がそろいました。
皆、眠っているようにしか見えない母を前に、現実が受け入れられないようでした。
もう以前のように話せない母を見るのも辛かったのですが、
それ以上に、母の顔を触る、母の父(祖父)の横顔を、見ていることができませんでした。

母に「今日花火だよ、行きたいっていってたでしょ?」と話しかけてはみるものの、
聞こえるのは人工呼吸器の音だけ。
父がポツリと、「花火どころじゃなくなっちゃったな・・」とつぶやきました。

 

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8/9、この日は日曜日でした。
疲れ切っていたので、午前中の面会はパスし、代わりに神社へ。
そのあとに午後の面会へ向かいました。

家族でいろいろ調べた結果、意識不明の患者には「声かけ」が効く、というので、
いろいろ声をかけてみることに。

前日、母に「大好きだよ」とか、「早く戻ってきて」とか、
話かけてみたもののモニターの数値はピクリともせず。
試行錯誤し、母の大好きだった本やブログの記事を読み聞かせてみると
脈拍が少し高くなりました。

これを皮切りに、妹たちが母の好きだった著者の本を買い集め、
読み聞かせをする日々が始まりました。
私はというと、妹が声掛けする横で、ひたすら脳に効くツボを刺激していました。
長女のくせに情けないのですが、病室で横たわっている母を見るとすぐ涙がでてしまい
声が泣き声になってしまったため、積極的に声かけができませんでした。
娘の泣いてる声なんて聴いたら母が身体に戻ってくるのが億劫になってしまうと思い、
ひたすらツボ押しに従事しました。

また、もし意識が戻ったら関節が動かないと辛いだろうというので、関節のマッサージもしました。
意識がない人の体は重く、動かすのが大変でしたが、
もう一度母と話したい、その一心で行動していました。

この気持ちは、家族皆、同じでした。
家族がこれほど一つの目的に向かって動いていたことはありませんでした。
皮肉なことに、母が倒れたことによって、家族がこれまでにないほど一致団結していました。

 

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8/10、非日常に日常が押し寄せてきました。
この日は月曜日、妹の会社は一週間お盆休みでしたが、私が勤める会社は出勤日です。
母が倒れた週に連絡は入れましたが、上司に詳しく状況を説明し、
ありがたいことにしばらくの間、通常9:00-18:00のところ、
8:30-17:30で働かせてもらえることになりました。
また、緊急事態ならばすぐに病院に向かってもよい、もし仕事が気になるようであれば
病院から戻ってきてよい、無理して出社はしなくてよい、など
期末で忙しい時期に柔軟な働き方を許してくれました。


緊急事態でしたが自分が会社にいこうと思ったのには二つ理由があります。

一つ目は、母の意識が戻ると信じて疑わなかったこと。
もし意識がもどった場合、長期的に入院費がかかります。
父は自営、妹は一人社会人ではあるものの新卒、もう一人は学生・・・
自分がある程度働き、入院費を稼ぐつもりでいました。
確か1日1万円ほどだったので、自分がフルで働けばカバーできると思ったのです。

二つ目は、気を紛らわすため。
病院の雰囲気は独特です。
しかも母がいる場所は救命病棟・・・死に瀕している人が運び込まれてくる場所です。
家族が待機できる控室にいる人たちは重病患者の家族であるため、
嗚咽が聞こえ空気は重く汗の臭いに満ちており、とてもいたいと思えるところではありません。
夕方まで働き、夜の面会に行く。
この生活スタイルを定着させ、長期戦に備えようと考えていました。


夕方まで働き急いで病院に向かうと、建物の前に妹と父がいました。
父は神妙な面持ちで、私に言いました。
「お医者さんにお母さんはいつ亡くなってもおかしくないって言われたんだ。
 お母さん、自分で尿が出せないんだよ。
 このままだと尿毒症になって、内臓が弱ってしまうんだって。」

新しい敵の出現に混乱しました。
意識を取り戻せればこっちのものだと思っていたのに、尿毒症ってなんなんだ・・・
調べても調べても、くも膜下出血と尿毒症は結びつきません。
今思うと、前例がないくらい重篤な症状だったのです。

混乱し、母の病室に向かうと、昨日と同じ、眠っているような母がいました。
前日と同じように妹が読み聞かせを行います。

母は、倒れる前日まで登山をしていたほど、登山が大好きでした。
子供が全員大学に入ると山岳会に参加し、ひと月に1度ほど山へでかけていました。
たまに早く家に帰ると、テントを張った写真や飯盒を焚いている写真を見せてくれました。

山岳会の友人達に事情を説明すると、たくさんの人が母に向けて手紙を書いてくれました。
「9月は○○山に登る約束をしたでしょう?元気になって一緒に上りましょう」
「9月の山岳会の新歓は、△△さん(母の名前)の当番だったでしょう?元気な姿を見せてください」
「みんな△△さんが帰ってくるの、待ってますよ!」

山の名前を聞くと、少し脈が動きます。
ああ、本当に本当に、なによりも山が大好きだったんだな・・
数年前に子育てを終えて、やっと趣味に全力を注げるようになったところなのに、なんで・・・
周りに50代で亡くなった女性なんていないのに、なんで母だけ・・・
ポジティブで前向きな気持ちと、ネガティブで後ろ向きな気持ちがずっとぶつかり合っていました。

手紙を読みながら、BGMには母の好きだった「THE BRUE HEARTS」のCDを流しました。
大好きな曲が流れると、また脈が少し動きます。
調べたとおり、医師にも言われた通り、意識不明でも聴覚は残っているのだなと思いました。

 

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8/11、火曜日
この日も前日と同様、夕方まで働いて、病院に直行しました。
同僚は普段と同じように接してくれ、早く帰る自分を快く見送ってくれました。

病院につくと、母はそれまでと同じように、静かに横たわっていました。
父に、「これまで話した現状を医師から聞けるけど、聞く?」と言われ、
聞きたくない、と答えました。

長女のくせに、誰よりも子供でした。
長女のくせに、医師に現実を突きつけられるのが怖かったのです。
母に救いがないことを信じたくなかった。
奇跡だけを信じたかった。
出血が収まったので手術をしましょう!と言ってほしかった。

妹と父親はきちんと現実に向き合っていました。
お昼の面会で医師から話を聞き、母がどういう状況にあるか、私以上に理解をしていました。
脳幹がやられているということは、自発呼吸はおろか内臓の制御もできず、
尿毒症によって内臓が弱っているため、もってあと数日、ということをわかっていました。
わたしはわかっていなかった。
わかっていなかったから、最後の最後まで空回りしていました。

祖父母や親戚が医師から話を聞いている間、娘3人で母を囲んで話しました。
私が母に向かって「お母さんがこんな状態じゃ、○○(次女の名前)が留年しちゃうよ?」と言うと、
少し脈が動きました。
しばらく言い続けていたら、妹に「お母さんにそんなこというの可哀想だからやめようよ・・」と言われ
またやってしまったと思いました。

 

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8/12、水曜日
この日はいつもと違うことを考えていました。
翌日の13日からは、お盆が始まります。
迎え火を焚いて、ご先祖様をお迎えする風習は日本人ならば誰もが知っているでしょう。
私は13日に送り火を焚いて亡くなった祖父を迎え、母をこちらに送り返してくれるよう、
お願いしようと本気で考えていました。
お盆がこのタイミングできたのは、奇跡だとすら考えていました。

業務を終え、病室に向かうと、母の大学の友人3人がお見舞いに来ていました。
一人は長野から、もう一人は名古屋からはるばる来て下さっていたのでした。
よく母の会話にでてくる3人なので名前だけ知っていましたが、
挨拶もろくにせず、マッサージを続けました。
今思えばご友人に対し失礼なことをしてしまったと思えるのですが、
その時は声掛けとマッサージ、あとはお盆で奇跡が起こると信じており、
友人どころではなかったのです。

母の友人と妹たち、父が母の思い出話をしているのを聞きながら、
思い出話なんてまるで母が死んだみたいで嫌だなぁと思っていました。

母の友人たちが帰宅し、家族だけが残りました。
面会は20時までですが、19時半頃に父があることに気付きました。
「数値が全体的に低下してるな・・」

数値の低下は内臓の弱まりを意味します。
このまま低下し続ければ、今夜が山であることを、
ただ、心臓が5日間もっているので、もう少しもつ可能性があることを看護師から伝えられました。
その時にやっと、私は理解しました。

母はもうだいぶ弱っていて、心臓が動いているのも奇跡であること。
次の瞬間息を引き取っていてもおかしくはないこと。
母の意識が戻る可能性はほぼなく、このままなくなってしまうであろうこと。

逃げていた現実と、向き合わなくてはなりませんでした。


本来は20時までの面会ですが、病室に少し長くいることを許可してもらいました。
家族で母を囲み、今までの思い出話をたくさんしました。
お盆の話をすると、妹から笑われてしまいました。
自分がいかに現実と向き合っていなかったか、痛感しました。

思い出話をしていると、今までまったく変化のなかった母が、涙を流しました。
意識不明の患者が涙を流すとき、何か感情があって泣くわけではないといいます。
ただ、その時の涙は、母なりのお別れのようにみえました。
さすがにこの状況での涙は反則だろ・・・と思い、泣いてしまいました。

1時間ほど経ちましたが、容態が少し回復したので、家族控室に移動しました。
容態が変化したら看護師さんが控室に知らせに来てくれる、とのことでした。
今夜が山ということで、妹と父は明け方まで待機するといいます。
自分は次の日が仕事だったので迷いましたが、少し待機することにしました。

控室では、母の話をたくさんしました。
もし駅で倒れていなかったら、自宅で倒れていたらこうやって面会することもできなかったこと。
普段から山にいくために鍛えていたから、心臓が5日間ももってくれたこと。
最近は家庭教師に、山に、句会に、趣味を謳歌して楽しそうに暮らしていたこと。

きっと母は幸せだったよね。
そんな話をたくさんしました。


22:30になり、容態は変化していないようだったので帰宅準備を始めた瞬間、
看護師が控室に駆け込んできました。

血圧の低下、脈拍の低下(確か)がみられるとのこと。

ああ、とうとうこの時が来てしまったんだと思ったときに、妹が言いました。
「お母さん、お姉ちゃんを引き留めてくれたんだよ!」

そうなのかもしれません。
あと5分遅かったら電車に乗っていました。
父と妹と病室に向かうと、母の血圧が2時間前より20くらい低くなっていました。

そこからは、全員でたくさん感謝を伝えました。

「育ててくれて、ありがとう」
「いつもそばにいてくれて、ありがとう」
「お母さん、大丈夫だよ、怖くないよ」
「お母さん、大好きだよ」

最後は母の大好きだった「情熱のバラ」を皆で歌いました。
母の血圧はどんどん下がっていき、22:56、脈拍は0になりました。

家族に囲まれながら、母の57年の生涯は幕を閉じたのでした。

 

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そこからはあっという間でした。
家族親戚全員集まり、息を引き取っていることの確認、霊安室への移動・・・
また都の条例で、病院外で倒れて運ばれ亡くなった場合は警察の管下になるとのことで
人生初、父と二人で検事の取り調べも受けました。

時刻は深夜2時、へとへとになって帰宅し、起きたら葬儀会社の人と打合せです。
通夜、告別式の日程を決め、各方面へ連絡、対応(ほぼ妹がやってくれました・・・)。

遺体の引き取りと安置、翌日には納棺、その次の日には棺を葬儀場へ移動しました。
これらと並行で、弔問客は次から次へとやってきます。
皆「まだ若いのに・・・」「なんで突然・・・」と涙し、もらい泣きをしてヘトヘトになる日々。

納棺の際は、母の大好きだった洋服を着せて、また着替えもいれて、
次女が母から預かっていた口紅を塗ってもらいました。
(そのエピソードを妹が漫画にしてます→http://ameblo.jp/chikutaco/entry-12064167313.html
死に化粧を施してもらった母は本当に、ただ眠っているようで、
打ち所が悪くて顔に痣ができたりしなくてよかった・・・
不幸中の幸いかな・・・なんてボンヤリ考えていました。

週末には、娘3人とも喪服を持っていなかったので喪服の購入。
まさかはじめて購入する喪服を母の葬儀で着ることになるとは思いませんでした。

バタバタしながらお通夜、告別式を終えました。
突然の告知で平日だったにも関わらず200人以上の人がお別れに来てくださり、
ああ、母は本当にいろんな人に愛されていたんだなあと思いました。

告別式では入院の最終日に来てくださったご友人と改めてお話することもできました。
数か月に母とご友人とで長野の山に登った際に、母はこんなことを言っていたそうです。
「子供に残したいのは財産でも土地でもなくて、自立して生きていく力かな」

私は今年で入社3年目、一応、一人で生活していけるぐらいの稼ぎはあります。
三女は新卒ですが、私より全然計画的に貯金し、家にお金も入れています。
最後の学生だった次女も今年春には希望していた会社から内定がもらえました。
このご時世ですがありがたいことに全員就職できそうで、一応一通りの家事もできる。

お母さん、私たちは自立できているでしょうか。
お母さんに比べたらまだまだでしょうか。

 

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